広島高等裁判所松江支部 昭和60年(う)67号 判決 1986年7月21日
本籍及び住居
鳥取県気高郡気高町大字酒津四四七番地二
運送業
中江時雄
大正五年一月二三日生
右の者に対する所得税法違反被告事件について、昭和六〇年一一月一五日鳥取地方裁判所が言い渡した判決に対し、被告人から控訴の申立があったので、当裁判所は検察官大迫勇壮出席のうえ審理をして、次のとおり判決する。
主文
本件控訴を棄却する。
理由
本件控訴の趣意は弁護人藤原和男作成の控訴趣意書記載のとおりであり、これに対する答弁は、検察官大迫勇壮作成の答弁書記載のとおりであるから、ここにこれらを引用する。
これに対する当裁判所の判断は次のとおりである。
所論は、要するに、被告人を懲役一年(三年間執行猶予)および罰金一〇〇〇万円に処した原判決の量刑は、罰金刑の部分につきその額が多額に過ぎ不当である、というにある。
そこで記録を精査し、当審における事実取調べの結果をも参酌して検討するに、本件は、運業を営んでいた被告人が昭和五五年分から昭和五七年分の三年間にわたり、合計四三二六万二七〇〇円の所得税をほ脱し、かつ町議会議員歳費から源泉徴収されていた所得税合計二七万七二七七円の還付を受けたという事案であるが、ほ脱期間が三年間に及び、かつほ脱税額は前記のとおり多額にのぼっていること、脱税の方法は、予め計画を立て三年間継続的に運賃収入の一部を収益として計上しなかったり、アルバイト賃金の水増し、架空賃借料の計上などにより架空の経費を計上してこれをいわゆる隠し預金していたものであり、多額の所得があるのに損失決算で所得税額は零円である旨申告し、三年間にわたり一円も納税しなかったばかりか、自己の議員報酬の源泉徴収分まで不正に還付を受けるといった悪質な脱税事犯であって、納税の義務が国民の基本的な義務の一つであることに思いをいたすとき、被告人が長年町議会議員の職にあり、その間町議会議長まで勤め、町民の範ためべき立場にあった点に鑑みればその刑責はまことに重いといわねばならない。してみると、被告人が本件を反省していること、本件脱税についてはすでに重加算税を含めて修正税額を納付していること、本件犯行の動機は被告人が昭和五十三年脳血栓で倒れ将来の生活に不安を覚え焦燥感から違反に及んだものであることなど所論指摘の被告人に有利な事情を十分考慮してみても、本件につき罰金刑を併科し被告人を罰金一〇〇〇万円に処した原判決の量刑は重きに失し不当であるということはできない。論旨は理由がない。
よって、刑訴法三九六条により本件控訴を棄却することとし、主文のとおり判決する。
(裁判長裁判官 古市清 裁判官 松本昭彦 裁判官 岩田嘉彦)
○ 控訴趣意書
所得税法違反 被告人 中江時雄
右被告控訴事件に於ける控訴の趣意は左記のとおりである。
昭和六一年三月一五日
右被告人弁護人 藤原和男
広島高等裁判所松江支部 御中
記
一(1) 被告人は要旨、
第一に、昭和五五年分の所得税金一五、八三九、〇〇〇円を免れ、
第二に、昭和五六年分の所得税金一七、六三五、九〇〇円を免れ、
第三に、昭和五七年分の所得税金九、七八七、八〇〇円を免れ、
たとして昭和六〇年一一月一五日鳥取地方裁判所に於いて、
懲役一年 執行猶予三年
罰金一〇、〇〇〇、〇〇〇円
の判決云渡を受けた。
(2) しかし被告人に対する右判決の中、自由刑の部分については止む得ないが、罰金一〇、〇〇〇、〇〇〇円の部分については量刑(罰金額)が著しく不当であるので刑事訴訟法第三八一条に基づき控訴の申立をしたものである。
二(1) 被告人は、昭和二九年より鳥取小型運送の屋号で運送業を開始したが、其の頃は所謂朝鮮事変の影響により日本国内の驚異的とも云える経済成長に支えられ好調な事業の成長を遂げた。
(2) しかし昭和五三年、被告人の人生の絶項期とも云える時期に被告人は脳血栓で倒れ、鳥取生協病院に入院せざるを得ないことゝなった。
この際被告人は、一途に右始業と町議会議員としての政治活動に没頭して来た自己の過去を顧み、当然のことゝして自己の将来に不安を抱くことゝなった。
(a) これは脳血栓と云う再起不能の病症により自分の身体に自信を喪失したこと。
(b) 将来多額の治療費、入院費、雑費を必要とすることになるところ、この病症の性質上是等の費用が幾等かゝり、亦何年続くか分からない、否死に至るまで何十年に亘るかも知れないが、到底家族等はこれを賄う資力を有していない。
(c) 其の頃、日本経済界も石油ショックの後遺症のため完全には立ち直ることが出来ず、その影響は運送業にも直撃的に連動し、被告人の事業収入も下降線を辿っていた。
而してその将来性は悲観的であり、到底従来通りの状況は期待し得ない見透しであった。
(d) 何よりも大事だったのは、右の状況の中で前記治療費と同様、被告人自信の経済生活上の不安であった。
民間中小企業自営者の老後は、それまでに自力によって蓄積した資産に頼る他はない。
給与所得者については、諸々の年金、共済会の支給により老後の保障が確立されているところ、自営業者に対しては何等の保障も無い。
即ち自営業者の老後は、医師、弁護士をも含めて事前の相当額の貯えが無ければ惨じめであることは我々の経験則上明らかとなっている。
(e) 而かも人間は一度経験し、獲得した自分の生活水準を余程の事態(戦争とか、災害等の不可抗力)が発生しない限り切り下げることは難かしいと云われているが、被告人とて当然にこのことに想を致したのは蓋し一凡人として止む得ないところであった。
(3) そこで被告人は脳血栓の病症により自己の老後の不安に気付き、自由主義経済体制の中に生きる者として老後の責任をも自ら執らなければならないとする焦燥感が本件各行為に走らせてしまったものと云える。
三(1) 本件の態様は、
(a) アルバイト賃金の水増し、
(b) 現金収入を帳簿に計上しなかった。
(c) 架空の賃貸料を計上した。
(d) 土地売買代金額の圧縮。
(e) 柵却資産を計上しなかった。
等いずれも比較的素朴であり、且つ原始的な手法を用いており、知能犯的要素が少ない。
(2) 而して右によって脱税した金員の使途は、
預貯金
子供等の学資
に充てゝおり、世間によくある女、飲食代等には消費されていない。
謂わば極めて真事目な脱税者であった。
(3) 被告人は、本件脱税により申告額を修正し、既に脱税した所得税はもとよりのこと、これに併せて重加算税を納付し、この金額は多額に上っている。
四(1) 現在被告人は、同人が心配していた通り自己の力を以ってしては法廷に立つことも出来ない身体的障害者となり、所謂寝たきり老人となってしまった。
(2) この上被告人に対し、罰金一〇、〇〇〇、〇〇〇円と云う多額な刑罰を課するのは被告人に対し苛酷な経済的要求をなすものと断ずる他はない。
(3) 被告人は、第一審で論述した通り地方政治にも多大の寄与をして来た。
被告人の右政治活動につき、被告人の所得が流出されたことも否定し得ない。
五 以上の諸点を考慮するとき、再起不能且つ何時死を迎えるかも知れない被告人に対し、罰金一〇、〇〇〇、〇〇〇円を科するのは如何にも高額に過ぎる罰金額(この罰金額は将来をも正常の稼働と生活をし得る者に対する金額である)と云べく、よって之が減額を求めるため第一審の判決の量刑不当を理由に控訴した次第である。